僕の両親の友達にスティーブというカナダ人のおじさんがいる。 スティーブは頭がいい。日本語も堪能である。 知識と知恵と遊び心を持ち合わせた尊敬する大人の一人だ。 彼の言っていたことで印象に残っていることがある。 「日本語の会話はボウリング、英語の会話はテニス」 ボウリングには順番がある。 ストライクを取ればみんなとハイタッチ、そして次の人が投げる。 ひとりの投球の後にみんなの反応があり、次の人が投球をするという形でゲームは進む。 同様に日本語の会話にも順番があるとスティーブは言う。 一人が話し、みんなでリアクション、その後にまた誰かが話し始める。 英語の会話はテニス。 テニスは2バウンドしたら終わりだ。 テンポの速いラリーのなかで会話は成立する。 だがそのラリーの一つ一つがすべて派手かといえばそうではない。 同調する意味で相手の言ったことをただ繰り返していたり、 「あなたはどうなの?」と同じ質問をしているだけだったりする。 ただワンバウンド以上はさせないため、間がほとんどない。 減点法のテストがメインの日本の英語教育の果てでは、頭の中で日本語から英語に翻訳し、さらに完全に間違っていないという確信を持ってからでないと口から言葉が出ないという現象が起きるので、最初はサービスエースを喰らってしまうのだ。 他国の言語を学ぶことはその国の文化を学ぶことだ。
留学から帰ってきた人は往々にしてアグレッシブになって帰ってきて”かぶれた”と言われる。
何かがズレているのは、ボウリング場でテニスをやっているからだ。
ひとりでラケットを振りまくってる状態になるのだ。 どちらが良いという話でもなく、さらにいえば、 テニスプレーヤーたちはボウリングをクールだと思っている。 そして僕らはテニスプレーヤーに憧れている。 スティーブはこう付け加えた。 「他言語を話すことは一種の演技だよ」 僕らは英語を話すとき、まず重いボールを手放して、ラケットに持ち替える必要があるのだ。 手元の英文法のテキストをパッと開いてみる。 ※ "Where does rubber come from?" "ゴムの産地はどこですか?" ※ いったいいつ使うのだろうか。