グラスが落ちて、割れた。
僕はそれをすぐには片づけず、しばらくの間眺めていた。
不均等に散らばる破片が美しく思えた。
諸行無常の一点を目撃したとき、ある朝の祖父の一言が頭をよぎった。
「さあ、これはどうかねぇ」
今も実家のそばで二人で暮らす父方の祖父母との、
忘れられないある朝の出来事。
*
電話が鳴る。
祖父からだ。
「ちょっと来てください」
我が家には暗黙の了解がある。
祖母が電話を掛けてきたときはさみしいとき。
駆けつけても拍子抜けすることが多い。
祖父が電話を掛けてきたときは何かあったとき。
すぐに駆けつける。
二〇〇メートルほど離れた祖父母の家に到着し、寝室に行くと、
祖母はいわゆる「ひきつけ」のような症状をみせていた。
救急車を呼んだ。
救急車はすぐに来て祖母を乗せたが、なかなか出発しなかった。
色々と事情はあるのだろうが、初めて見る祖母の姿に焦っていた僕は全然急いでくれないじゃんと、とてもイライラしていた。
親父は救急車を追走するために、うちの車を取りに駐車場へ走った。
祖父は。
見回すと祖父がいなかった。
庭先から家の中に戻ると声が聞こえた。
「ちょっと待ってください」
祖父にとっては妻の危機である。
親父にとっては母親の危機である。
僕にとっては祖母の危機である。
男三代、それぞれの距離。
その距離が一番近いはずであろう祖父はこたつでゆっくりと準備をしていた。
距離と危機感は反比例するものなのだろうか。
祖父はゆっくりと立ち上がり、いつもの黒い革の小さなショルダーバッグの紐をくぐると、帽子を被って、玄関に向かった。
そしてゆっくりと靴を履きながら言った。
「さあ、これはどうかねぇ」
微笑むように柔らかな表情だった。
その祖父の佇まい、一挙手一投足は、とても美しかった。
六十数年連れ添った相手を想うとき、頼りになる言葉などないのかもしれないと思った。
*
―グラスが落ちて、割れた。
あのときの祖父の表情や声色を僕は鮮明に憶えている。
―僕はそれをすぐには片づけず、しばらくの間眺めていた。
頭ではなく心で憶えたことはどの引き出しにしまってあるのかわからないがとても鮮明で、目の前の事象と記憶とが交わったときにふと浮かんでくる。
―不均等に散らばる破片が美しく思えた。
午後には祖母は回復し、寄り添う祖父と病院をでた。
―諸行無常の一点を目撃したとき、ある朝の祖父の一言が頭をよぎった。
祖父母がともに歩む点は線となり、今もなお、ながく延びつづけている。