ハンコを押して、離す。
自分の名字が首をかしげたように傾いて現れる。
また曲がった。
ちゃんとへこみの部分に人差し指をあてながら押したはずなのに。
「すいません、曲がっちゃいました」
別に引っ越しが初めてだから緊張して曲がったわけではない。
ゆっくりと起きて、通勤ラッシュを終えた心地よいペースで走る地下鉄に乗り、ここへ来た。つまり、心身ともに健康な僕が、平常心で押したハンコが曲がったのであり、だからこそ問題なのだ。
「ああ、大丈夫ですよ」と書類を確認した担当者は言うが、当の僕は、人生は意外とハンコをまっすぐ押せるかどうかだよな、と傾いた自分の名字を見ながら悟っていたのだ。
傾いたハンコも僕を見て、やれやれという顔をした。
手続きが終わってファミレスに入った。
目移りしてメニューに迷う。麺もいいし定食もいい。温かいものを食べてホッとしたい気持ちから、担々麺が優勢であったが、白いご飯を食べたい気持ちが勝り、ここはどんなときにも間違いない生姜焼き定食にした。
呼び出しボタンを押したが、店員さんはなかなかやって来ない。
お昼時は過ぎていたが、店内は混んでいた。
早歩きをする店員さんと目が合ったので軽く会釈をすると、急スピンで直角に曲がり、注文を取りに来てくれた。
「ご注文どうぞ」と店員さんが言うと、なぜか無意識にもう一度メニューに目を落としてしまい、担々麺の写真が目に入ってきて、一瞬迷ったが、何とか持ちこたえて予定通りの生姜焼き定食を注文した。
待っている間も傾いたハンコは僕に話しかけてきた。
「さっきみたいに迷ったりするとあんまりいいことないよ」
ハンコをまっすぐ押せないのも迷いからくるものなのだろうか。
「ここだ」とすんなり押せばまっすぐ押せるのに、押す瞬間に「本当にまっすぐかな」と一瞬迷うことでハンコは曲がるのだろうか。
「生姜焼き定食になります」
豚肉の端々が焦げていた。
「ほらね」
傾いたハンコはそう言った。
帰りの地下鉄のなかでも、傾いたハンコは偉そうに僕の隣に座って、家に帰る様子をほくそ笑みながら見ていた。
帰って自分の部屋に入り、引っ越しの準備をする。
何を持っていって、何を捨てるか。
また僕は迷っていた。
傾いたハンコはヒジをついて寝そべりながら、「もう寝たら」と呑気に言った。
*
日差しがまぶたを貫通して水晶体を刺激した。
ピンポーン、ピンポーンとチャイムが鳴っている。
両親はもう仕事に出かけているのか誰も出る者はいない。
何時に寝たのか覚えていないが次の日は始まっていて、昨日の迷いのことなど忘れ、僕は寝ぐせのついた頭をかきながらインターホンに出た。
「宅急便でーす」
まだ身体は寝ているのか酔拳のようにふらふらと廊下を歩き、ドアを開け、荷物を受け取って、いつものカギ置き場に入ったハンコを手に取り、押した。
まっすぐに。
「ありがとうございましたー」
宅配のお兄さんは風のように去っていった。
「それでいいんじゃない?」
傾いたハンコは首をまっすぐに直しながらそう言った。
「ねぇ、ビートルズの"let it be"って曲あるでしょ?」
「うん」
「あれ、"なすがままに”って意味らしくてさ、なんか今そんな感じだったよ。あれってハンコをまっすぐ押せるかどうかの曲だったんだね」
「絶対違うと思うよ」
鳥が鳴いている。