終夜―3

無意識に目を細めていたのは外が明るくなっているからだった。

「準備します」と彼は立ち上がった。

準備しなくてよい、と僕は思った。

なぜなら蕁麻疹は薄くなってきているからだ。

そんな言葉がノドまで出かかったが、救急車がすぐそこまで来ている以上はショーマストゴーオン。

彼が汗だくのTシャツを脱ぎ、その背中が露わになった時、まだそこには薄いながらも赤みが残っていたことに、僕は安心をしていた。せっかく水を持ってきたのに火が消えていたのでは格好がつかない。いつの間にか僕は残酷な演出家となり、このストーリーをきれいに終わらせる方法を探っていた。

目の前が急に白くなる。

忘れていた眠気に誘われてフッと寝落ちたのだろうか。

いや違う。

後輩が白いシャツをひらりと身にまとったのだ。

そして黒いスラックスに足を通そうとしている。

「なんで?」

「なにがですか?」

なにがですかときた。眠気が覚めた。

「いや、それスーツ?」

「はい」

はいときた。これは夢か。

「うん、なんで?」

「救急車乗るからちゃんとしていかないと」

黒目がちな彼は真剣に言うが、救急車はちゃんとしていくところではないし、ちゃんとできる人が乗るものでもない。正確には、今ここでいう「ちゃんと」は「スーツ」ではない。「病人」であることだ。

「暑いでしょ」

「はい」

僕もおかしくなってきた。

今気にすべきは気温ではない。

「もうそのTシャツと短パンでいいじゃん」

「これだと蕁麻疹見えちゃうんで」

「いや見せに行くんだよ!」

「たしかに」

あっさりと彼はスーツを脱ぎ、Tシャツ短パンサンダルのザ・パーフェクトフリータースタイルで救急車へと向かった。

時と場所と場合。

全てが適切な分量で調合されてこそ「日常」である。

「非日常」に取り残された僕の足元には、TPOを全て間違えた男が脱ぎ捨てたスーツの残骸がある。

太陽が昇るころ、僕は布団に沈んだ。

目覚めるとそこにはまだスーツがあった。

出来れば「夢オチ」が望ましかったが、眠る前と変わらぬ形状で散るスーツに、疑いようのない現実だったことを知らされる。

携帯を開くと後輩からメールが一通。

点滴を打たれながらピースをする自撮り写真。

笑ってしまったことが悔しい。

お腹もとくにすいていないし、バイトに行くにはまだ早い。

溜息をひとつ吐いて布団をかぶり、

また始まる「非日常」に備えて、僕は再び目を瞑った。

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