終夜―2

ご存じない方もいるかもしれないが、世田谷は迷路だ。

北沢地域も例に漏れない。

救急車から家の位置を教えてくれとの連絡が後輩の携帯に入った。

大山の交差点方面から茶沢通りに入り、すぐ見える公園を左に入って数回曲がった位置にあるこの安アパート。救急車が通るには少し道幅が狭い。

「近くに来たら出るので電話ください」と告げ、後輩は携帯をたたんだ。

電話を切ると、かゆみに耐えて悶絶していた彼もさすがに疲れたのか静かに一点を見つめ、僕もこの状況に慣れたのか病人を放って携帯で関係のないサイトを見ていた。

静寂。

その最中、かすかなサイレンの音が聞こえた。

「お、来たね」

と僕が顔をあげると、彼は静かに舌打ちをして、すぐさま先ほどの携帯番号に折り返した。

「あ、もしもし、すいません、今もう深夜というか朝なんで、そのピーポーだけやめてもらっていいっすか?」

なに様なのかわからない、でも人の道としては間違っていない、微妙なラインのお願いをする後輩にびっくりしたのは僕だけではない、電話の向こうにいる救急隊員もだ。

はい?と聞き返されたのか、「いやだから、あの、」ともう一度言い直そうとした矢先、大きめのピーポーが東北沢に轟いた。

「それだ!!」

と後輩は叫んだ。

まあまあのボリュームで叫んだ。

うるさい人に「うるせーな!」と注意する人の方が、うるさい人よりうるさい場合がある。

風船がパンっと割れるように最悪の可能性への妄想も弾け飛び、曇っていた視界が晴れ、現実がくっきりと姿を現した。

うつむく彼の首筋の蕁麻疹は少しずつ薄くなっているように見えた。

一時的なものだった。

放っておけば治るやつだった。

一分一秒を争わないやつだった。

なにより彼は先ほど元気に叫んだ。

彼は元気だ。

こんな元気な奴のために、

こんな時間に救急車を呼んでしまったのかと、

後ろめたさが一気に僕を襲った。

こんな元気な奴のために。

そう思ったのはきっと僕だけではない。

電話の向こうにいる救急隊員もだ。

前略あのときの救急隊員さま、

10年経った今、

僕は罪悪感と謝罪の気持ちを抱えて、

あのときを振り返っています。

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